社会との距離感に過敏な八重樫です。こんにちは。
元々は国と言うか土地に対する帰属意識はそこそこある方だったと思うのですが、近頃はそれを余り強くは感じられず、不便な言語を母語にしちゃったなと思う事がチラホラあります。
とは言え、右だ左だという政治的な主張は一切持ち合わせておらず、自分や小さい範囲での身の周りがそこそこ豊かに暮らせていければ、どんな社会でもいいかなーと思っています。
なので、自分がフワっと思っている条件さえ満たされていれば、「もう、この国はダメだ!国外に脱出せねば!」なんて事は思いません。
つまり、暮らしが最優先なんですよね。
そういった観点から感じる「これは良くないなぁ」と感じる事との付き合い方を整理するお話。
そもそも文化とは
wikipediaを見ると「人間が社会の成員として獲得する振る舞いの複合された総体のことである。」と、記載されています。
また、言葉の使われ方としては下記の3つとも記載されています。
- ハイカルチャーのように洗練されたもの
- 象徴的な思考や学習による信念やふるまいのパターン
- ある社会組織に共有されている価値観
私が「これは良くないなぁ」と感じるのは、主に「象徴的な思考や学習による信念やふるまいのパターン」に分類される事柄に多く見られます。
暮らしの中の文化
カジュアルに使われる「文化」が示すのは、「ハイカルチャーのように洗練されたもの」である事が多く、食文化やオタク文化のように大衆の暮らしに密接な物が分類されると思われます。多分。
ドイツの哲学者ユルゲン・ハーバーマスさんは文化を「文化とは知のストックのことであり、コミュニケーションの参加者達は世界におけるあるものについての了解しあうさいに、この知のストックから解釈を手に入れる」としているそうで、これはなるほどスッキリ理解し易い感じですね。
食文化のように、土地や資源の条件から脈々と長い月日を経て、先人の創意工夫により洗練され続けている文化は、とても大切な事であり、今後もそれは大切にし続けなくてはなりません。
また、メイカームーブメントやオタク文化、娯楽に纏わる文化も時代により洗練され続けており、原始の物とはまるで違う形になっていても、やはりそれは一本の線で繋がっており、常に歴史の積み重ねから得られる成果です。
こういった文化は公的に保護され難く、実現しようとしても上手くいっていない事が多く見られます。
特に日本は色んなしがらみから保護され難い「文化の保護され難い文化」があります。これはまさに「文化の害」と言えるでしょう。
会社における組織文化
microsoft社には、culture teamというmicrosoftの組織文化をひたすらに考えるチームがあるそうです。
Apple社は現在は解りませんが、スティーブ・ジョブズさんは自分の手から離れてしまった組織文化により一時期は追い出されるような形でApple社から離れる事になったりしてましたね。
海外の事例は、「会社そのものを売る」という事が戦略的に行われる事が少なくなかったりするので、そのまま当てはまる物ではありませんが、microsoftのように意識的に組織文化をしっかりと考える事は、様々な面で大切に思います。
少し前に流行った「ワーク・ライフ・バランス」「クオリティー・オブ・ライフ」みたいな言葉にしても、日本では「私生活を充実させる」というような使われ方、退勤後のプライベートの時間に注視される事が多いですが、私はこれについてある程度の誤解があるんじゃないかなと思っています。
当然、区切りを設けずにダラダラとする事は良くないですし、私生活を充実させる事によって生産性を向上させる事は大切ですが、仕事は生活の一部ではないという事ではないと思っています。
そもそもで、どちらもワーク有りきなんですよね。
「必ず何かしら仕事をして、社会に参加しなくてはならない」なんてのも面白くない考え方であり、「文化の害」であるとも言えますが、そこは憲法もありますし、そんな事ばかり言っていたらギリシャのような前例もありますけども。
話がそれてしまうので、ここは「生産性の向上の為には、組織文化をキチンと考える事は大切」という事で。
「文化」の境界線
そろそろ本題。
「文化」と言われる物事について、どの程度からが文化なんでしょうか?
半世紀続けばそれは文化?
例えば、「夕方に帰宅して、枝豆をツマミにビールを飲みながら野球中継を見るお父さん」は文化でしょうか?
いかにも、「昭和を象徴するお父さん」といった感じですが、文化であるとしたらこれはもう殆ど失われ衰退した文化でしょう。
先ず、野球中継は実験的に実施された物を除くと1952年に民放初の野球中継が放送されたそうです。
2003年には全国放送のレギュラー番組が打ち切られるようになってきたそうです。
51年間ですね。
例えば、「披露宴を伴う結婚式を挙げる」は文化でしょうか?
これは自分が特に思う所でもあるのですが、未だに「結婚式を挙げるには最低300万は必要だから結婚出来ない」と言う若い男性が多く、きっと文化として根付いているのでしょう。
婚姻に伴う儀式としては平安時代にまで遡れるそうですが、今の形(結婚式場やホテルを借りての披露宴を伴う)ものになったのは、一部の富裕層においては1920年台からだそうです。
また、これが一般大衆でも行えるようになったのは1990年頃からだそうです。
今でも続いているから、27年。
結婚披露宴については、バブル経済崩壊後の90年台前半にホテルが宴会場のターゲットを法人から個人に切り替えた結果だそうです。
時を同じくしてリクルート社からゼクシィが発刊され、より多くの人にその情報は浸透しました。
マーケティングが功を奏し、情報は知識として共有され、当然のように文化になったのです。30年も経たずに。
商いで文化を用いるのは賛否両論ある事ですが、マーケティングやブランディングの成功事例ではあります。
しかし、それによって「だから結婚をしない」という人が居るのは「文化の害」であると言えます。
「文化の害」に制限される?
こういった、「文化の害」に思考や行動を制限や強制されている事例は少なくありません。
理由も解らないままに「そういう文化だから」と、制限や強制されるその文化はいつ誰がそれを文化だとした事なのでしょうか。
広義での「文化」を重んじる事はとても大切です。
人はコミュニティに属さず生きる事は出来ないって程ではなくても、凄く難しいです。
なので、「文化」に対して敬意を払い、学び、付き合っていかなくてはならないのです。
また、文化を阻害する文化もあるので、そういった文化は疑い、原因を理解して改善をしなくてはなりません。
社会で生きるという事は、誰が決めたか解らない、善し悪しすらも知れない不文律に晒されながら生きているのですし。
結論
「文化なら仕方ない」と十把一絡げに迎合するのではなく、疑う事も必要。
「マジョリティである事を強制される」「誰とも知れない個人の提唱する社会規範から外れてはならない」「勤勉な無能が求められる」みたいな事に嫌悪感があります。
特に、インターネットにおいてはこういった事例が多く見られます。インターネットの村社会問題。
自分は「美味しいトコ取り」で生きていきたいと考えており、そういった不文律から自由を迫害される事が苦手なので、アイスソードは奪い取る派です。
とは言え、基本的には「文化」ってやつは凄く好きです。
自分の活動によって、自分が好きな文化を守りたいと思える程度には好きです。
特に地方では日々失われてしまっている文化が沢山ありますし、社会の色んな仕組みで仕方のない事となってしまっている事が多く、それを自分の範囲で何とか出来ないかなんて事も考えていたりします。
まー、結局そーいう事を考えている時に邪魔になる「文化の害」が気に入らなかったりしてるだけでしょうな!